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熊谷連続殺人事件が突きつける「共生の断絶」:安全とは、ただ壁を高くすることなのか

社会福祉士

1. :あの日の静寂を切り裂く、やり場のない憤り

2015年9月、埼玉県熊谷市の静かな住宅街で起きた「熊谷連続殺人事件」。 一人の子を持つ親として、そしてこの埼玉の地で地域福祉に携わる者として、あの日以来、私の心から消えない棘があります。

幼い子供を含む6名もの尊い命が、あまりにも理不尽な形で奪われた。 犯人が「心神喪失」として死刑判決が破棄され、無期懲役が確定したという結末も含め、遺族の無念、そして地域に刻まれた深い傷跡を思うと、言葉が見つかりません。

「これが現実の世の中なのか」

社会福祉士として「誰もが共に生きる社会」を掲げながらも、この事件の前に立つとき、その言葉がいかに無力で、いかに綺麗事のように響くか。今日は、その葛藤を隠さずに書きたいと思います。

2. 「安心・安全」という言葉の虚妄

住環境コーディネーターや宅建士として、私は日々「安全な住まい」を提案しています。 強固な鍵、高いフェンス、最新の防犯カメラ。それらは物理的な安心を与えてくれます。しかし、この事件が証明したのは、どれほど家を要塞化しても、「社会のセーフティーネット」が機能不全を起こしたとき、個人の努力など一瞬で無に帰すという残酷な現実です。

犯人は警察の追跡から逃走し、その直後に犯行に及んでいました。 情報の共有、警察の初動、そして「異変」を感じていたであろう周囲の眼差し。それらがすべて繋がっていれば、防げた未来があったのではないか。そう考えずにはいられません。

親として、我が子を抱きしめるときに感じる「この子を守り切れるのか」という根源的な不安。その答えを、私たちはまだ社会から提示されていません。

3. 「共生社会」という名の、あまりに高い理想

社会福祉士が目指す「共生社会」とは、障害の有無や国籍、境遇にかかわらず、誰もが排除されない社会です。 しかし、この事件における犯人のような、制御不能な悪意や、理解を超えた精神状態にある存在を、私たちはどう「共生」の中に位置づけるべきなのでしょうか。

  • 排除すれば平和なのか?
  • 隔離すれば安全なのか?
  • それとも、もっと手前の段階で、何かができたのか?

共生とは、手を取り合って笑い合うことだけを指すのではありません。 「異質なものへの恐怖」をどうコントロールし、社会としての「防波堤」をどこに築くか。 この事件は、私たちに「善意だけでは成立しない共生」の厳しさを突きつけています。私たちが持つべき視点は、理想論に逃げることではなく、綻びだらけの現実をどう修復していくか、その泥臭い議論を避けないことです。

4. まとめ:憤りを、明日の「見守り」に変えるために

正直に言えば、今も結論は出ません。一人の住民として、この事件を許すことなどできませんし、現実の不条理に打ちのめされる夜もあります。

けれど、社会福祉士として私にできることは、この「憤り」を風化させないことです。 リフォームの現場で「お隣さんの顔が見える窓」を提案すること。後見人として、孤独な魂が暴発する前に誰かと繋ぎ止めること。認定調査で、地域の「危うい予兆」を敏感に察知すること。

安全とは、壁を高くすることだけではなく、「誰かが誰かを見ている」という相互監視ではない「相互関心」の密度によって作られるのだと信じたい。

不条理な世の中でも、私たちはここで生きていくしかありません。せめて、愛する子供たちが歩く明日の道が、今日より少しだけ「誰かの目」に守られた場所であるように。私は今日も、さいたまの街を走り続けます。

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